きいちゃんへ ~新米ママの赤ちゃんへの手紙~

本業女医。でも、作家になりたかった私の、子育て・物思いの記。

わが子とはじめて見つめ合ったとき

9月7日の午前2時。

真っ暗な夜道をタクシーに乗って、わたしはひとり病院に向かっていました。病院に着くと、寝静まった廊下の先に明るいベビールームがあり、うまれたばかりの赤ちゃんたちが、透明な保育器に入って並べられているのが見えました。

その光景はあまりにも人工的で、もうすぐ私のお腹の中の子もここに並ぶのだということが、とても不思議なことに思われました。

きいちゃんが生まれたのは、それから2日経った9月9日の午前10時24分でした。長い長い痛みのあとで、わたしの心臓はひび割れたように疲れていました。そしてきいちゃんも、長いお産のさなかに羊水が肺へと入ってしまい、うまれた直後は呼吸が不安定でした。そのため、しばらくのあいだ保育器にあずかっていただくことになりました。

 

あくる朝、わたしと同じ日に子どもを産んだ他のお母さんたちは、自分のところへ赤ちゃんを迎えて一緒に過ごしはじめました。それなのに、わたしのところにはまだ赤ちゃんが来ないので、なんとなく心細く、羨ましく、それでも幸せな気持ちのまま、9月の明るい窓辺で1日を過ごしていました。

 

夜になると、他の部屋からあちこち、赤ちゃんの泣いている声が聞こえてきました。それなのにわたしの部屋には赤ちゃんがおらず、わたししかいないというのが、強烈に寂しく悲しくなりました。

 

きいちゃんと同室の許可が下りたのは、うまれて3日目でした。

わたしはベビールームからコットに乗ったきいちゃんを受けとると、そろりそろりと部屋へつれていきました。タオルの上にぺったりと仰向けになって眠りながら、すうすう空気を吸っている、おととい生まれたばかりの子。何日か前までは、空気を吸ったこともなかったのに、もう当たり前のように吸っているなんて不思議なかんじです。そのときのきいちゃんは、まだきいちゃんという名前もついていなくて、ただ神さまがわたしにくれた人生で一番の宝物だということだけははっきりとわかっていたので、コットをエレベーターへと運びながら、わたしはうれしさで呆然となってしまいました。

 

そのときのきいちゃんは、周囲の人間のことを、まだ誰とも認識していない、ひとりの赤ちゃんでした。

 

ところで、母乳というのは赤ちゃんに吸ってもらうことで出るようになるそうです。わたしのお乳は、ようやくきいちゃんと一緒になれたばかりで、まだほとんど出ませんでした。初乳は大切だという知識だけは、医学部にいたとき勉強していたので、夜中に一生懸命しぼってベビールームに届けました。でも、「極少量なのであげられませんでした」と言われてしまいました。

きいちゃんは当然、わたしのおっぱいをあまり欲しがりませんでした。

 

夜、動物のように泣き止まないきいちゃんを抱き上げながら、部屋の中にひとりぼっち。カーテンの外には田んぼが月光に輝いていて、今とても困っている状況にもかかわらず、この瞬間がかけがえのないものであることがわかり、何十年経っても思い出す日が必ず来るという確信とともに眺めていました。

それからふと、きいちゃんがお腹の中にいたころ、わたしがシャワーを浴びるときによく歌って聞かせた曲を口ずさんでみました。七つの子、星めぐりの歌、それからボクの子守歌。

するとそのとき、

きいちゃんの2つの黒い瞳が、はじめてはっきりと開きました。うまれたばかりのすこし浮腫んだまぶたの間には、白目はほとんどなくて、きらきら濡れて光る黒目だけ。そのせいか、よけいに人ならざるもの、動物的なものに見えました。

きいちゃんはその目でわたしを見たあと、泣き止みました。それから、歌声のしたほうに向けて、片耳を傾けました。わたしはその耳に向かって、もう何曲か口ずさみました。歌い終わると、きいちゃんはゆっくりわたしのほうへと顔を向けて、しばらく長いこと見つめ合っていました。きいちゃんが意志をもって何かを見つめた、はじめての瞬間でした。

そのときのきいちゃんは、はじめて自分が何者であるかをわかったような、この人の子どもなんだということがわかったような、そんな顔をしていました。

 

そのとき流れた時間を、幸福とか、感動的とか、神秘的とか、そういう言葉で言い表したくはありません。でも、代わりになんて言えばいいのか、わたしにはまだわからずにいます。

そしてそのときからきいちゃんは、その人、母親であるわたしの、ちっとも出ない貧弱なおっぱいを、もの凄い力で吸うようになりました。

 

わたしはそのとき、これからの人生でなるべくこの子の気持ち、考えていることを、尊重して生きていけますようにと、神さまに願いました。

流産したときの、祖母との思い出

祖母、今年の夏で94歳。

傍からみれば元気溌剌とした祖母も、このところ暑い夏がくるたびにどこか元気がなくなってきたように見えます。その姿を見ていると、ああ、もうじき彼岸というところへ逝ってしまうのかな、という気持ちに少しずつおそわれます。

祖母自身もそういった兆しを感じとっているのかもしれず、いつの年だったか、おみくじで凶がでたときは、そのあとで手当たり次第にお守りを買いあさっていました。どんなに高齢になっても死を恐れているその姿は、なんだか哀れで、軽い気持ちで「おみくじ引こうよ」と誘ってしまったことを、私は後悔したものでした。

祖母のもとを訪ねると、思い出の品にかこまれてぼんやりしている姿を見かけるようにもなりました。女学校時代の答辞など、ごわごわに古びて丸まった紙を、何度も何度も広げ直して眺めているのです。ちょっとのぞくと、こんなことが書いてあります。

 お誓ひの詞

 古戸野の春 風暖かに鳥歌ひ 百花色とりどりに咲き乱れてまことに美しくうららかな粧ひをこらし 私共を招いて居るかのやうでございます。常日頃あこがれの的でありましたこの學び舎 入學を許されて今日から樂しくいそしみ得る喜びに 胸おどらせてゐるのでございます。時あたかも紀元二千六百年 八紘一宇の尊き道を打ち建てるためにふるひ起ってゐる有難い年に…………

その他にも、昔の古い写真や手紙が祖母を取りかこんでいました。誰それの血圧がこのところ高いとか、そんなこと。もうとっくに死んだ人たちの書いた文字が、私が生まれる前の日々の、体調不良だの外国の情勢だのといったことを物語っていました。

それを見ていると、私の生まれるずっと前から世界はとうにはじまっていたこと、私の知らない昔の日々は、覚えている、思い出せるものとして、祖母の思い出のなかに閉じ込められているのだということがわかります。今、私のお腹の中にいる子も、いつか今の私の写真を見て、同じようなことを思うのでしょう。

 

ところで、私が初めて妊娠したのは2年前でした。

初期だったにもかかわらず、私は祖母に妊娠のことを告げました。

途端に祖母の目尻がしわしわの三日月になり、白濁した瞳がまるで子どものように輝いたのでした。変な話ですが、赤ちゃんが来るというのがこんなに嬉しいことだったなんて、私はそれまで知らずにいました。

「これでおばあちゃん、いつまでだって生きちゃうよ」

と、このうえなく幸せそうに言ってくれました。

 

流産がはじまったのはそのちょうど一週間後でした。

その日は土曜日で、私は仕事をしていました。お昼休みに出血に気づきました。どきどきする胸をおさえながら夕方7時に退勤し、時間外で病院を受診しました。まだ赤ちゃんは見えていました。でも、その夜からどんどん出血が増えてきてしまいました。

流れませんように、流れませんようにと念じながら、ベッドの上でじっとし、まんじりともしない夜を過ごしました。ときどきお腹がチクリと痛むごとに「今の、気のせいだよね?」とか、「やめて、お願いだから去っていって……」とか、祈りに祈りました。そしてトイレに立つたびに、出血の量に動揺しました。

日曜日の夜になって、おそらく今回は駄目だったなと悟りはじめました。部屋には、妊娠中に健康でいようと思って買った品々が並べてありました。並べたときの幸せな気持ちを思い出し、室内の景色が涙で歪みました。

 

週明けに受診すると、すでに赤ちゃんは流れてしまったあとでした。会計をすませ、駐車場に出ると、祖母に妊娠を報告した一週間前とはうってかわった、秋らしい風が吹いていました。

祖母にメールをしました。

「今回は流れちゃったよ」

やがて返事がきました。

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「まりーーーT_T」

 

それだけ。

おばあちゃん。。。

おばあちゃんが顔文字を使いこなせたことを、今はじめて知ったよ。。。

会ったとき、祖母はとくに残念がったり寂しがったりはしませんでした。「そっかそっか」と言いながら頭を撫でてくれただけでした。いつもちょっとしたことで大げさに涙を浮かべる祖母なのに、あのときだけはそうしなかったのが心に沁みました。

 

 

2年経ち、私はふたたび妊娠しましたが、祖母は以前のようにはしゃいだりはしません。

私は気恥ずかしさから、大きくなったお腹をあまり誰彼さわらせたくないのですが、祖母とふたりきりになったときには必ず祖母の手をとり、自分のお腹に導いています。祖母は顔をくしゃくしゃにして、幸せそうに、笑顔いっぱいに撫でてくれます。私の胸くらいの背しかない祖母のそんな様子を見下ろしていると、おこがましいかも知れませんが、祖母が彼岸へ逝くのを先延ばしにし、今この世につなぎとめているのは、私とお腹の中のこの子なんじゃないかと思えてきてしまいます。

 

祖母は以前のように思い出の品を広げなくなり、そのかわり、部屋を片づけはじめました。93歳までやっていた表千家の先生をついにやめ、実家のお茶室を私の里帰りに向けて整えるのだと言っています。

里帰りする約束なんてしていないのに、弱ったなあ。しかし私は無下にもできず、祖母の先走りを咎めることができずにいます。なので、ほんの少しでいいから里帰りさせて、と夫にお願いしているところです。

妊娠で薄れゆく夢と、母になって持つ希望

二度めの妊娠を迎えている。

初めて妊娠したのは2年前で、そのときは流産した。しばらく不妊治療にかよい、たしかその頃からだったろうか。

私の胸の内にあった「作家にならずに終わる人生なんて、あってはならない、考えてはいけない」という気持ちが色褪せ、

黄昏のような寂しさを覚えはじめた。

 

はじめて折本の折り方を教わった幼い日。

一枚の紙に切れ目を入れて折りたたむと、一冊の本が姿をあらわした。

忘れられない、六歳の私がつくった本。一辺数センチそこらのまっさらなページの上に、空について思ったことを綴った。

出来あがった折本を胸に、読書家だった母が私のための本をぎっしり詰めこんでくれた子ども用本棚の前に立って、こう考えた。

私にも "あの” 本が作れたなんて! 

こんなにも美しい発見が、生まれてこれまであったろうか。

そのときから、いつか本物の本を書くひとになろうと決めた。箪笥いっぱいになるまで物語や詩を書き溜め、いくつかは小さな賞をいただいた。

親のすすめで医学部に進んだときも、「それでも人生は長いから、いつかはなれるだろう」と思っていた。

25歳で大手出版社の新人賞にはじめて送った長編小説が、二次選考まで通過したとき、父も母も、私の書いたお話を愛してくれる知人たちも、私はきっと20代のうちに作家になれるだろうと予言をくれた。

けれども新人賞は厳しくて、なかなか最終選考には残れない……。

 

妊娠してからついに心がざわつきだした。

「お母さんはね、本を書くひとなのよ」と、子どもに教えてあげられる日を、これまで何度夢みただろう。

それが今、よりどころがなくなっていくようで虚しく、物語を考える気力がゆっくりと凋落していくようで怖い。

 今、私は31歳。

世の中のひとに読まれることのない、私だけの物語の世界を読み返し、そこに棲む者たちの気持ちに触れて、笑ったり涙したりしながらこう思う。

もしかしたら死ぬとき「ああ、ついになれなかった」と思って振りかえる人生なのかも知れない。

私の人生は。

 

それでもたぶん、私はまだまったく諦めてしまったわけではない。

生まれてくるわが子の感じた物事のなかから、なにか美しいものを見出そうと手ぐすねひいている。

そして、ふたたび書き出すことのできるその日を待ちわびて、こんなブログをはじめたのかも知れない。

 

たとえば一緒にベランダから仰ぐ、嵐のまえの黄土色の雲。

その割れ目からわずかにのぞく、ひとすじの空の池。

今すぐあの水色の池まで行って、向こうに広がる空に手を伸ばしたいのに、と泣かれてもかまわない。

やがてガラス窓を洗う大粒の雨、

窓の端から端へと閃く、目を疑うような稲光、

そのあとで轟く恐ろしい雷鳴が、今から待ち遠しい。

その雷鳴はきっと昔感じたのと同じように、

私の腹を突き抜け、

私の子の胸を貫き、

ふたりの身体の中心まで殴りこみにくるだろう。

 

狐の嫁入りといわれる、お天気雨も待ち遠しい。

光をはらんだ重たい雨粒が、なんでもない空き地を鏡のように輝かせるところを、私の腹の中にいるこの子にきっと見せたい。

もしその機会を夫に先に奪われたりしたら、私は文句を言うだろう。

 

まだ生まれていないうちから、この子は雨が心躍るものだということを私に思い出させてくれる。

かつて素晴らしかったものたちを、ふたたび素晴らしいものとして甦らせてくれる。

 

この子が大きくなったら、こんなことを言ってみたい。

「風ってなんて気持ちがいいんだろう。生きているうちにたくさん浴びておきたいと思うけど、忙しくしているとなかなか難しいの」

研修医時代の一睡もできなかった当直明け、白みはじめた外の空気を吸いにでた瞬間、信じられないほど清らかな早朝の風に撫でられたときのことを思い出しながら、そう言ってみたい。

もしこの子が私と同じく医学の道を進み、

あのときの私のような研修医になり、

体力も気力も削られるしんどい夜を過ごすことになったらと思うと、心配だ。

ようやく寝られたと思ったその十五分後に聞こえてくる救急車の音に、泣きそうになりながらまた起き出すのかと思うと、心配だ。

もしそうなってしまったら、きっと夜明けにはあのすがすがしい、忘れられない風を浴びてほしい。

生きていることに感謝しながら。

 

このブログのタイトルは、私がかつて書いた童話に出てくるキャラクターの名前にちなんだものだ。どじょうなのに、”ふなっこ” という名前の彼のことを、いつかこの子に話して聞かせたい。

 

それでも母になったら、いつか本当にこの夢を諦める日がくるかしら。

今はまだわからない。

 

すこしずつ、流産のときのことから思い出して書いていこうと思う。